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桝久 こぼれ話

Feb 09, 2011 by toshiaki
先日あるお客様から「マスキューさん今年で創業90周年なんですね!」
言われてみればそうなのです(笑)。ただ我々は細々と家業としてやっていますから、あまり何周年という感覚がありません。
今は創業者である私の祖父久治、その長男で私の父茂とも鬼籍に入って久しいので、私の伝え聞いた創業の話を形にしておいても良いかと。

祖父久治は横浜綱島の農家の三男として生をうけました。大綱村の庄屋さんの隣にある家です。本百姓の家ですが、一家族が食べるに精一杯で三男の久治さんはそのまま家付きで一生送るか、養子にいくかどちらかしかないようでした。肥えを貰いに近所を大八車で周り、兄貴は大八車に座り自分一人で肥えと兄を乗せた大八車を引くことに嫌気がさし、家をでる決意をしたらしいです。でも当時のこと、何処かの商家に丁稚奉公するしかありません。(テレビドラマ『おしん』の世界です。)そして当時最先端の都会、横浜関内の「奴利屋」という酒屋に奉公人としてお世話になりました。いまでは綱島を田舎などと言う人間はいませんが、奉公に出てから初めて関内で「ざるそば」をご馳走になったおり、食べ方が解らずめんつゆをざるの上からかけてしまったそうです(笑)。明治の終わりから大正期にかけての都市部以外の生活がしのばれる笑い話です。

往時の横浜は幕末の開国で日本の表玄関となって、西洋文化がいち早く伝わり都市化が進んでいました。今と違い全て船で運ばれた時代ですから、まず一番に横浜に荷物や人が集まり運ばれたのです。
奉公当時の話は祖父から聞いた話ではなく父から聞いたものですが。当時「奴利屋」は絶頂期で奉公人も20名以上いたようで、仕事に使う自転車の数が足りません。そこで早起きした順で自転車が使えたようでした。奉公人は競って早起きに務めた訳です(笑)。
また、朝一番で大八車に四斗樽を載せて江ノ島の料亭に届けて帰ってきて、その日の仕事が終わり。権田坂を越すのが大変だったようでした。今では箱根駅伝の難所として有名ですが、人力に頼る往時、重い荷物を積んだ大八車には難所中の難所だったようです。
もちろん久治さんと同じ様な境遇の人間が奉公人として修業しながら、独立の夢を抱いて働いていたようです。久治さんと同じ「奴利屋」の奉公人の朋輩が独立創業した酒屋さんが、まだ横浜には何軒も残っています。

奉公してから何年かたち、『奴利屋』のご主人から独立を認められお金を貸して貰い、鶴見の生麦の地で夢に見た店『桝久』を出したのが関東大震災の二年前。一緒に所帯をともにしたのが同じ『奴利屋』で女中奉公していた「糸」さんです。
京浜工業地帯の勃興期で横浜から川崎で新たに工業化都市化が進む時期です。酒屋に限らずこの時期に創業した個人商店はとても多いのです。

こんな訳で私が関内にこだわり、商売のテリトリーにしたり、関内(正確には関外)吉田町のバータウザをやってみたりするのです。どうも私の遺伝子がさせるようです(笑)。

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